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- お知らせ
萬店に関わるすべての方へのご挨拶です。
3代目店主「金子孝道(たかみち)」が2022年6月1日に94歳にて、
3代目おかみ「金子和子(かずこ)」が2024年3月30日に92歳にて逝去しましたこと謹んでご報告申し上げます。
昨日5/22は菩提寺である南浦和宝性寺にて、孝道・和子の法要を行い、墓地で和子の納骨を行いました。
「私は晴れ女なのよ」と言っていた通りに、朝からくもり空だったのに一瞬ぱぁーっと晴れ間が広がり、その間に納骨の儀を執り行うことができました。
その様子に住職様も、石材屋さんもとても驚かれておりました。
生前は、お客様のみならず、地元近隣の皆様、取引業者様、苦楽をともにした従業員とそのご家族様、詩吟や俳句・体操などでのご友人様、沢山の親戚の皆様には、感謝しても感謝しきれないほどに大変お世話になりました。誠に有難うございました。
温故知新、生前に残された数々の教えを忘れずに、3代目が行ってきた様に時代に合わせ、これからも150年200年と萬店が続くよう努力してまいります。
ありがとうございました。
萬店 4代目店主 金子剛
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以下、個人的な話ですが、ご興味あればどうぞ。
孝道は、昭和3年生れで、「中島飛行機(現・スバル)」で航空機の設計を行いつつ、萬店の店主も勤めておりました。
終戦後しばらく経つと、高度経済成長期(1954-1973年)と呼ばれる好景気の時代になりました。最初の東京オリンピックの頃は、自家用車が一気に増加し国内の消費者行動が大きく変化したことに合わせ、萬店はドライブイン形式の「レスト棟」と、多数の個室・宴会場を備えた鉄筋コンクリート造の「萬店本館」を建て、連日本当に沢山のお客様にお越し頂き、それまで茅葺屋根だった萬店が大きく発展しました。
1993年には、当時の浦和市(現・さいたま市)のうなぎ屋の組合「浦和のうなぎを育てる会」の発起人・初代組合長として、江戸時代から続く地元の食文化である「浦和のうなぎ」をさらに広め、伝統の味を後世に引き継ぐべく、食文化の継承や後継者の育成などの活動を展開し、地域の活性化や観光振興に取り組みました。
和子は、昭和7年に7人兄弟の2番目で長女として生まれました。
実家も燃料屋を営んでいた事から、小さい頃から家業を手伝いつつ、兄弟の面倒をよく見ていたようです。
孝道と結婚し萬店に来てからも、萬店のおかみとして朝から晩まで、子供を背負いながら仕事していたようです。
そこからくるバイタリティーとアクティブな性格は、趣味の世界でも同じで、華道・茶道・詩吟では師範になるまでその道を極め、俳句や絵手紙も一切手を抜かず、できた作品は店に飾りお客様に見て頂き、お祝いのとき差し上げたり、困っている人を励ます時に送ったりと。
アクティブさは群を抜いており、80代で両膝の人工関節手術を受け、90歳を超えてから美容外科に行き顔のシミ取りをしてました!晩年に至っても、伊勢・北海道・那須に旅行に行くだけでなく、逝去の1週間前に「冥土の土産よ」と言いながら一人でタクシーに乗って野村萬斎さんの狂言を見に行っていました。とにかく何事も全力で取り組んでいました。
家では、いつも優しく暖かく、とにかく家族を心配する2人でした。
じいちゃん(孝道)においては怒った顔を全く思い出せないほどに温厚なひとで、いつも優しく静かに「みんな元気か?」と声をかけてくれました。
ばあちゃん(和子)は、私が萬店に入ることを一番に喜んでくれたと共に、会うたびに疲れてないか・お腹は減ってないか聞き、子供名前を一人ずつ言っては「~は最近はどうしてる?」と心配してくれました。心配されすぎてうるさく感じることで喧嘩もしましたが(^^;)
私も2人のように穏やかな気持ちで、人に優しく、そして何事にも全力で生きていきたいと思います。
じいちゃん、ばあちゃん、ほんとうにありがとう。どうか安らかにお休みください。
【金子和子のじぶん史】
熊谷在住の唐崎瑞穂さんに依頼して、生前より自分史の編集を始めておりました。生きている内に完成させ、みんなで見ながら話したいと言っていたのですが、残念ながら完成できず。
最後は私が変わりに写真提供や文章のチェックをさせていただきました。見て頂けたら幸いです。
URL: https://mandana.jp/wp-content/uploads/2024/04/kanekokazuko.pdf
萬店 金子篤史(孫、5代目店主の予定)
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うらわのうなぎ 萬店 | 048-862-5648 | https://mandana.jp/
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